二月の

争いが暮れた世界で

燕になって あなたの元へ

高く高く飛べないが

羽を広げ風に乗る

庭木の枝が枯れる頃

幼き日々の街をゆく

痩せたその背中は

枝の先の空へ向かう

二月の燕よ、枯れた声の優しさよ

二月の僕らよ、遠くへと飛び立てよ

かすかに光るその目には

赤子に触れるその風は

過去を辿り 今に凪いて

空の先に漂っている


祖母の部屋に入ると、いつもの椅子に座ってひとり楽しそうに誰かと話している。現実のことなんて一つも話さなくなった祖母をイカれてしまった、という家族。でもわたしは前よりも祖母の心が近いところにある気がした。手で口を押さえて、泣くほど笑いながら誰かと話している。誰と話しているの?って聞いても、人なのかもわからなかった。会うたびに一言目が久しぶりになってしまってごめんね、と私が言うと、いつも燕になって屋根の上まで会い来よるやんね、とケラケラ笑う。話を聞くと、色んな人が色んなものに化けて祖母に会いにきていたみたい。

わたしはまたあなたに会いに行きたいと思って、この曲ができた。

なんにもない休日

 

晴れて青空になることも、雨音を聞くこともない木曜日の曇りの日。久しぶりになんの予定もない午後がやってきた。友達のことを考える。優しいきもちになった。あっという間に日が暮れそうになったから、次はなにをしようかと考えた。

ギターを弾きたくなったから、公園に向かう。家から一番近いこの公園はとてもいきいきとしている。子どもはボールを追いかけ、老人は並んで陽に向かい、犬は草と戯れ、ベンチで何もしないでいる人。

私はギターを弾いている。いきいきの仲間入り。

暫く弾いたら、眼鏡をかけたおばあちゃんと、何故かバトンミントンのラケットを持ったおじいちゃんが隣に座り微笑む。わたしも微笑む。気づいたら二人はどこかへ行って、空いた席に次は角刈りのお兄さんが座る。それは、ガットギターですか、懐かしいなあ。と言い、わたしが歌うわたしの曲を、もちろんお兄さんは聴いたことがないはずの曲を一緒に歌う。次にどこにいくかわからない音程についてくる。少しうっとおしい、けど、何曲も聴いてくれて、曲が終わったら必ず、とてもいいですと、拍手をしてくれる。そんなことをしていたら、次はおばさんたちがレジャーシートを隣にひいて、お弁当開いて、ここは生演奏や〜、と集まってきた。

ギターのねえちゃん、とだけ呼ばれて、あとは何も聞かれなかった。とにかく、ご飯を食べなと豆ご飯に、にんじんしりしり、ウインナーを皿に乗せてわけてくれた。マッコリもくれた。後から来た、フランス帰りのお姉さんは、フランスパンとチーズとワインを持ってきた。みんなにフランスで結婚する予定だったけど、出戻りよ、と茶化されていた。みんな話に夢中で、曲なんか聴いちゃいない。でも弾くのをやめると、途端に弾いてよ、と言われる。聴いてるんだ。

帰り道、いっぱいになったお腹をさすりながら、あの人たち一体、誰なんだろうと一服。

ま、でもいいか。

なんにもない休日っぽいからいいや。

 

 

小雨

 

ベットに脱ぎ捨てられた白いブラウス

天井まで積み重なる本

継ぎ接ぎで作られたカーテン

そこから漏れる小さな光

あなたが一番大切なものだと言っても

あなたじゃなくなった途端に必要とされない

変わるものは小さな波になり、凪いでいる

 

違う人の影とわたしの影が重なる時もある

何もなかったことにはできない

そう思う人とも早かれ遅かれ 手を振り別れる

 

彼女は幸せなときもいつも死の話をする

死が近いことを知っているかのように生を生きる

丘の上から街を眺めた 次の日彼女は死んだ

それは雨の日だった それは小雨

傘をさすほどでもない、でも確かに私の身体に

心にゆっくりと鉛を留める小雨

 

死に向かう人と接する中での喪失感と、

同時進行で進み訪れる生活との間、

生と死が共存する日常は その間は その隙間は

埋めるものでもなく 埋まらないもので

それでも降り続ける小雨が溜まっていく水たまり

 

今、丘の上をひとり眺める

この瞬間は幸せでいたい

 

 

 

茨木のり子

朝起きて 涙がでてきた 朝起きて 細々としたわたしは あなたの詩と出会う

私は私の感受性が嫌になっています

跳ね除けても、避けても、どこからでもやってくる水のようにしなやかに、鉛のように重いその感覚は、私にしか見えなくて、誰かに伝えようものなら言葉を通じて別物へと変わっていくその様に、また私は苦しむ。

本当にそこに、すぐそこに在る、身体の中に。

それが上なのか、下なのか、真ん中なのか、奥なのか。

染み込むようにあっという間に浸透して、占領して

私の生活を美しく、そして苦しみでいっぱいにする。身体は動かず、涙だけが現実を思わせる。

そんな日々に

あなたの詩と出会う。

 

自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて

 

気難しくなってきたのを

友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを

近親のせいにするな

なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを

暮らしのせいにはするな

そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性ぐらい

自分で守れ

ばかものよ

 

茨木のり子

 

朝起きて 涙を急いで拭いて

わたしは図書館へと向かう

もっとあなたの詩を読まなければならない

そんなことを感受性が訴えかける。

年末

2023の年末は、京都だった。

なんの計画もなく、車を走らせ、車中泊して辿り着いた。ドタバタと家を出たので、忘れ物がなんなのかもわからない。

こんなもんでしょう、とわたしがわたしを納得させるときは必ず少し足りない。後少しなのだ。大丈夫でしょ、って思うときも大体は危ない。危ないことをそのときはわからない。そしていつも心がおかしくなってから気がつく。

京都に来てから、高熱で倒れたり、強い言葉で大切なものをぐちゃぐちゃにされたり、そういうあんまり思い出したくないようなことが起きた。あと少しわたしがわたしをちゃんと守れていれば、と反省。

春まで楽しめるといいな。楽しくなくても、春をちゃんと感じられる心でいれるといいな。

あったかいね。日差しと気温がちょうどよくて、とても気持ちが良い。良すぎている気もする。その反動なのか、たまに街でふきげんなひとを見て、なんかいいなと思ったり。ふきげんって平仮名だと少し柔らかく感じてこれもまたちょうどいいな。

ふきげんな春、という曲が今日できた。3月になってすごく素敵な歌声を持つ人に出会って、その人と歌いたいなと思って勝手に作った。曲を作るときは大体感情の昇華のための歌ばかりだけど、誰かとと一緒に歌ってその時間を楽しみたいっていう気持ちが芽生えてきて、なんだか嬉しい。

あと、最近は全く知らないジャンルの音楽を沢山知る機会があって、まっさらな状態で一から好きなものを感覚で掘る感じがなんだか心地が良い。前までは奇跡的な曲に出会って心から嬉しい時もあるけど、変に気取った態度で音楽を消化している時も勿論あって、それが正直しんどすぎる。その時間本当にいらないよって思う。なのでこの頃は純粋に楽しめて嬉しい。

はじめて

知らぬ間に沼のような終わりのない消費に踊らされて、気づけば虚であり、そしてそれをまた埋める為に音楽、本、映画に触れていると味がしなくなる。埋めることを目的にしているからいつまでも続くし終わらない。これに気がつくと靄のかかった負のループに入る。だから生きるのが下手くそでもいいから味のするその瞬間を見逃さずに私は生きた生活を頼むからしていてくれ。生きている生活。余計なものやことが多い、でもそれを減らすから終わるわけじゃない、もっと深い根っこを見つめて。根っこは横にも縦にも長く広く伸びているから、焦らないでゆっくりと。

今日は大好きな小川美潮さんの曲を聴きながらそんなことを考えてた。はじめて、という曲を聴くとそんなループは消えて無くなって、またはじめてになる。

なんてなんて美しい曲だ。